★アルコール依存症の家族が幸せになる方法★

アルコール依存症の夫との13年の結婚生活が終わりました。なぜ夫から離婚を告げられたのか?出会いから別居、再同居、離婚、“手放す”ことの意味、“愛って何?”、依存症の本人と共に幸せに生きていくために家族が出来ること、など色々な経験を、みなさんと分かち合えたらいいなと思っています

ゲームに参戦しない。 “~に対して怒る(to take offense)” って、私の選択?

こんにちは!まききちです。お越しいただきましてありがとうございます。
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アラノンの書物の中で私が最も好きなのは、

「アルコール依存症者の家族のためのガイド」である。

この本は、依存症者本人が自分の不安を解消するために、また飲むためのさらなる理由を作りだすために使う可能性のある “武器” について語っている。
これは、怒りを挑発し、不安を起こさせるあり方も含んでいる。


私の人生の中で出会ったアルコール依存症者は、私を非難し、計画や約束を破ることで、よく私に怒りと不安を起こさせたものだった。

彼はしばしば、人々の前でいろいろな事をしでかした。それは一般的につじつまの合わなくて頼りにならないものだった。

アラノンや家族会につながる前は、この依存症本人の言動や武器に、私の感じ方や行動をコントロールさせていた。
私はその事に怒っていて、自分の感情も傷つけていた。

私は、その都度怒りの防衛で反応したり、または落ち込みや自己卑下の中に静かに身を沈めていた。

私は、その文章の「~に対して怒る(to take offense)」の中の、"take" という言葉が、自分の選択を意味しているということを学んだ。自らtakeしているのだ。

私はなぜ、自ら怒りを選んで気分を悪くし、悲しみに陥らなければならないのか?
それよりも、喜びを選んでプログラムの道具の中から平安を選ばないのだろうか?

徐々に私は傷ついた感情で言動することをやめた。

アルコール依存症者にそれらの感情をぶつけるよりも、自分のスポンサーとそれらのことについて話し合った。

私は、ゲームをすることや、防衛的言動で応戦することや、自己憐憫に陥ることをやめた。

アルコール依存症者に私の感情を傷つける力を私が与えている限り、彼は私の平安をコントロールできたのだ。

彼が私を攻撃することによって、自分の苦しみをやわらげる事を、もし私が許可しなかったら、私は彼の病気の中でゲームをしないで済んだのだ。

私は、切り離れることの訓練を実践した。そして、そのことは私を平安に導く、より健全な自尊心へと導いてくれた。


インフルエンザにかかっている人から自分自身を切り離して距離を置くことは、その病気にかかることから私を守ってくれる。

アルコール依存症から感情的に自分を切り離すことは、同じように、抱えきれないほどの怒りや不安に自分を陥らせることから私自身を守る。

「愛が生き続けるための唯一の方法は、飲酒が続いているとき家族の一人一人がそれらにとらわれて苦しまないことを学び、また飲酒のしりぬぐいすることをやめることなのである」

 

 

 

そうですね。アルコール依存症者は、いつも人を非難し、計画や約束を破ることで私たちを怒らせたり落ち込ませたりします。

こちらが説得しようとしても、正しいことを言って応戦しても、相手には通じません。(病気だからです)

知らないうちに、あちらが仕掛けてきたゲームに参加して、自分の感情を傷つけてしまっています。

本当に時間の無駄です。分かっていても、どうしても相手に〈普通の行動をしてほしい〉、〈普通の対応をしてほしい〉と思ってしまい、それを要求してしまいます。


でも、アルコール依存症はそういう病気なので、無駄なのです。
巻き込まれるとこちらが傷つき、不幸になります。

愛をもって手放しましょう。

今日も自分を自分で傷つけず、苦しませず、平安で幸せな一日を過ごせますように★

 

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仮想の敵とたたかわない

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おはようございます!

今日も本から、ふむふむと納得の言葉をご紹介します。

 

スペインの優れた古典『ドン・キホーテ』の中で、作者は、世の諸悪に立ち向かっていくとぼけた英雄について語っている。

彼の冒険の中に、巨人が自分を威嚇している、と想像した風車群との出合いがある。

彼はさびた刀を持って、疲れ果てて倒れるまで戦う。

私たちもまた、戦う価値のないような、くだらない事に対する怒りや心配で重武装して、「仮想の敵と戦う」ことに、自分自身をしばしばすり減らしているのではないか?


実際には、思いわずらう価値のない事柄と戦うために、時間とエネルギーを浪費していないだろうか?

私は、小さな問題を大きなものに膨れ上がらせる、自分のたくましい想像力を取り除きたい。

それぞれの問題をはっきりと見て、それ自体の妥当な価値へと注意を向けるように努めていこう。

これが、第2ステップが提案する、私が取り戻したい “正気” である。


「神様、ちょっとした出来事と危機の違いを判断できる、バランスのとれた思慮をお与えください」

 

 

 

そうですね。私たち依存症の家族は、あとで冷静に考えてみるととても小さなくだらない事を、自分の中で大きな問題にして、依存症者に対して怒りや恐れを抱いたりしてしまいがちです。

常に、どこか不安があるんですね。それは依存症者と生活してきた中でそうなってしまったという人も、もともとそうだったという人もいると思います。

私は、元夫と出会う前はとても楽天的な性格でした。
でもどんどんアルコール依存症に巻き込まれ、いつもどこか不安で恐れを抱いていて、ちょっとした事も自分の頭の中で大きな問題に仕立て上げていました。

依存症者と一緒に暮らし、巻き込まれていくことは、家族をも病気にしてしまいます。

今日も彼らの問題に巻き込まれず、深呼吸をして、自分自身の幸せで平安な1日を過ごせますように★

 

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負けるが勝ち ~気楽にいこう~

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元夫の状態がどんどん酷くなっているのを感じる今日このごろ。

私はアラノンの本を読んで、心を落ち着けます。

 

絶対正しいものであることが、どうしてそんなに重要なのか?

自分のものの見方を受け入れられようと執拗に要求することで、

私たちはなぜ、こんなにも生きることを複雑にし、問題を悪化させているのだろうか?

アルコール依存症者との生活にはつきものである緊張の中で、この姿勢は、自分自身に多くの問題をもたらす。

 

アルコール依存症者の言うことを、それが納得のいくものであろうがなかろうが、一歩引き下がって受け入れることに、どんな害があるというのだろう。

手から放して神に預ければよいのではないだろうか。

緊張を増したり、爆発を呼び起こしそうな状況に追い込まれる時、私は “気楽にいこう”というスローガンを思い出す。

敵意に満ちた罵倒のやりとりは、私が求めている平安を得る助けにはならないことを忘れないようにしよう。

 

なぜ私は、そのことが正しくても正しくなくても、批判や非難にすぐ反応するのだろうか?

夢中になって否定することや不合理な言い訳で、私は何を得るというのだろう?

お互いに神経がピリピリしている環境の中では、どんな些細な事でも口論の種となる。

その中に自分自身を投じる必要はない。

私は気にかけまい ー もしできるなら、にこやかに。

これは、いさかいを避けるための真に優れた方法である。

私たちの落ち着いた離脱は、アルコール依存症者に真剣にソブラエティを求めようとさせるほど、居心地の悪いものとなるかもしれない。

 

「論争から身を引くことは、あなたを勝者にしないかもしれない。

しかし、論争によってあなたが失ったものは、あなた自身の尊厳であり、恵みである」

 

 

 

私たちは、どうしてもアルコール依存症者の理不尽な言動に振り回され、それを正そうと、そしてその闘いに勝とうと、一生懸命になってしまいます。

だって、相手が間違っているんだから仕方ないですよね。

でも、こちらが反応して口論してしまっているうちは、これは永遠に続きます。

あちらはそういう病気なのです。

理不尽な相手に負けるのは悔しいです。

でも、終わりのない闘いから身を引くことは、自分自身の身を守ることにつながります。

 

今日も、自分を大切に。

平安な一日でありますように。

 

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