こんにちは!まききちです。お越しいただきましてありがとうございます。
はじめましての方は、こちらをどうぞお読みください^^
★amazonから本が出版されました★
【夫の底付き】のエピソードは、経緯を詳しく書かせていただきました。
そして、ブログには書いていなかった、最近判明した元夫と彼女のこと、それにまつわる元義母とのことなども書き加えて、完結しています。
よろしくお願いします★
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おはようございます!
令和ですね、令和。
“れいわ”と入力して、まだすぐにこの漢字に変換されないのが、やっぱりな! というか、これからなんだなと実感しますね(笑)
さて、今日も本の1ページから。
「手から放して神に預ける」(Let Go and Let God) というスローガンは、私にとって、手放すことによる安心と平安を見いだす上でとても大きな助けとなっている。
自助グループに初めてたどり着いたとき、私は間違ったあり方の中で人の世話をし過ぎていた。
アルコール依存症の母の飲酒に私はとらわれていて、飲むことを止めさせる方法を見つけることに必死になっていた。
ミーティングに参加し続けるうちに、とらわれは自分自身を傷つけるということを学んだ。
私は、自分に力がない事に対して何とかしようとしたり、コントロールをしたりして、自分を狂気 ー 冷静さを失った思いや考え方 ― に陥れてしまう。
その後、私はもう一方の極端に走ってしまった。それは、まったく感心を持たないという方向である。
だけど、私が不親切になり無関心になる時、私の裏をかくアルコール依存症の病のズル賢さと強烈な力に、自分自身を飲み込ませてしまうように無防備になるのを感じた。
私はアルコール依存症者の操りの中で反応し、ゲームに参加した。アルコール依存症者がコントロールの支配権を持つ中で、私の感情はからまったクモの巣のようになってしまった。
私はまたもや自分自身を傷つけることになってしまったのだ。
愛を持って手放すためには、「手から放して神に預ける」を実践しなければならない。
アルコール依存症者をコントロールしようとすることを手放し、その代わり、アルコール依存症者のゲームの餌食になる事を避けて、自分自身に集中する努力をし続けた。
手から放して神に預けたとき、私はもっと適切に共感ととらわれ、無関心との違いを見分け自分自身に立つことができる。
そして、そこには秩序立った考え方と、感情の平安があるのだ。
神の助けを得て幸せな中庸という望みを現実的なものとすることができる。
私の人生の中で、「手から放して神に預ける」というスローガンを実践するとき、"強迫的な黒か白か”というあり方と、"無関心”というあり方の間を揺れている振り子が、平安という落ち着いた色の中で調和を見つける。
私たち依存症の家族は、どうしても、「私が何とかしなければ!」という考えに陥ってしまい、どうにもならないこと(家族の飲酒)を、何とかしようとして自分自身を狂気に陥れ、自分自身を傷つけてしまいます。
そこから抜け出すには、「自分の力を超えた大きな何か」があると信じ、自分は何もできない(=無力である)と認めることから始めます。
こちらがコントロールしているつもりでも、依存症者もこちらをコントロールしています。
相手の言動に反応してしまっている時点で、実はコントロールされているのです。
あちらは、こちらがどう反応するかを十分にわかった上で、何か言ったりしたりしてくるのです。
そんな、ただただしんどいゲームを繰り返す日々に、私からサヨナラしましょう。
自分は相手をコントロールできないと認め、ただコントロールしようとすることをやめるのです。
「愛を持って手放す」
本当に難しいですが、まずは相手にとらわれるのをやめて、自分自身に集中。
どうやったらいいのか分からないという方は、まずは自助グループにつながって、同じ経験をしてきた仲間の助けを求めることをオススメします★
今日も1日、よい日でありますように★
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